令和3年9月6日午前3時36分東京の国立がん研究センターで父吉原貴光は、家族に見守

られながらこの世を去りました。

享年69歳でした。父は元マルサで税理士で、とても厳しくとても愛情深い人でありま

した。元マルサの迫力もあり、父より怖いと思った人はこれまで一人もおりません。

子供の頃に学校の先生に怒られている際中も、「この後父ちゃんに怒られるんだ」と思い

怖くて泣いていました。昨今、私が仕事で多忙な中、1日に何度も買い物をして来いと

言ってくる父に、「母に頼んで」と言うと、「コロナ禍、母ちゃんを危ない目に

合わせるな!」と怒っていました。「レバニラを食べたい」という父

に母が、「近所のスーパーにレバーが売ってなかったから店でレバニラを買ってく

る」と言うと、「お前のレバニラ以外食べないと言っているだろう」と怒っていました。

いつも優しさと、母への愛が、そこにはありました。

厳しさの中に、愛があり、お客様や家族、従業員に対する優しい想いがありました。

私が鹿児島に帰ってきて10年間、本当に厳しく育てられていたと思います。それが愛

であったなと思います。

脳梗塞になったのが6年前で、肺癌が見つかり、定期的に検診を受け続け直に5年にな

るねと話していた矢先に食道に新しい癌が見つかりました。

食道を全摘出してからは食事があまり取れなくなり、

数ヶ月後には肺に転移、その時にステージ4、余命3ヶ月と宣告されました。

都会での治療から、鹿児島大学病院に転院。きつい抗がん剤治療に弱音を吐くこ

となく、私は父に頑張れということはできなくなっていました。もう十分頑張ってい

るよと思っていました。ただ、入院となると母と会えないことだけが辛そうでした。

縁があり東京築地のがんセンター中央病院での治験の話があり、副作用なく生活する

ことができていました。「余命3ヶ月と宣告されてから、1年7ヶ月も経ったな~」と、

3週に1度の治験の度にカウントし、癌が無くなることはなくとも、このままずっと

癌が大きくなることなく、孫たちの成長を見届けながら、穏やかに過ごせていけると

家族全員が思っていました。癌を起因とした脳梗塞を鹿児島で7月11日に発症し、

7月14日に鹿児島空港に雷が落ちて出発便が5時間延びた時も、決して諦めようとせず

治療のために上京した父でした。最後の抗がん剤治療は私の誕生日7月15日になって

しまいました。翌日の7月16日に新たな脳梗塞を発症し、さらに肺炎と診断され、

15回目の治験を受けることができず、そのまま東京のがんセンターに入院しました。

9月に入り、「だいぶ肺炎症状も良くなってきたので鹿児島への転院、在宅治療手配が

出来たら帰宅可能」と主治医より許可を頂き、「鹿児島の自宅で死にたい」とずっと

話していた父の願いを叶えるため9月8日に鹿児島に帰るつもりで飛行機や介護タクシー

の手配をしていました。9月5日昼過ぎに急変したと姉に病院から連絡があり、

私も鹿児島から、兄も小田原から、すぐに駆け付け、父の意識のあるうちに会うこと

ができました。肺が真っ白になっても最後の最後まで頑張って呼吸をしていました。

「もういいよ、十分頑張ったよ」と父に言うと静かに息を引き取りました。父の息子

で良かった。父は、皆さんのことが大好きでした。家族が大好きで、母のことが

大好きでした。父は、最後まで照れて母に言えなかったことがあると思います。

「お前のおかげでいい人生だったよ」と最後決め台詞を吐くつもりだろうと思ってい

ました。何か最後言いたそうにしている父に「いい人生だっただろ?」と言ったら、

モニターの数値が反応したように見えました。改めて父のガッツがすごいなと思いました。

最後まで諦めない姿勢をこれからの人生で手本にしていきたいと思います。

父は釣りと競馬と家族が大好きでした。皆さんは父にとって家族でありました。

船を持っていることが父の自慢でした。父に言われて船舶免許も取りましたが、

決して、私に運転させてくれなかったので、一度も父なしで釣りに行ったことはありません。

体が多少きつくとも釣りの日はとても活き活きとして楽しんでいました。

父は話が好きで、嘘みたいな話をよくしてくれました。マルサ時代に、壁をよじの

ぼって、窓を叩き割って入ったとか、日本刀で脅されたとか、そういう話が全て本当だった

と元同僚から聞いたときは、驚き改めて父を尊敬しました。

どこに行っても強烈な印象を残す父は、どこに行っても誰とでも仲良くなる父だった

のでした。「親父さんは元気か?」といつも聞かれました。ですから、ここ最近は本当に

心苦しかったです。マルサ時代が多忙を極め、忙しすぎて、朝帰りしてそのまま出社が

当たり前で、たまの休日に姉を連れてバスに乗ってチョコパフェを食べに行ったとか、

そんなささいな出来事が記憶に残るくらい忙しかったのだなと思いました。兄が、

「おじちゃん、また遊びにきてね」と父に言って、父はマルサをやめて税理士になった

そうです。父はよく土日にお客様のところに私を連れて行っていました。

何十億の融資の話をしている父はかっこ良かったですが、私が税理士になり父の仕事を

継ぎたいと思ったきっかけは、船が沈没した漁師さんを無償で助ける父の姿でした。

土日も仕事、夜中も仕事、本当によく仕事をする両親でしたが私が子供の頃、

野球をいつも見に来てくれました。野球を辞めようと退部届を出した時も、野球はやってくれ

と頼まれました。息子はメジャーに行くんだ!と言っていました。野球で培った体力、忍耐力、

礼儀の重要性など多くのことが今の私の基礎となっています。メジャーに行かせるためだっ

たのかも知れませんが、続けさせてくれた父に感謝しています。私が小学生の頃、日本で一番の

商売の大学はどこ?と父に尋ねたら、一橋大学と教えてくれて、それで私は一橋を目指しました。

合格したときその話をしたら父は覚えていませんでした。こうして父はいつも私の人生を自然と

良い方向へ導いてくれていました。もちろん仕事でも多くのことを教えてくれましたし、

父がいたからこそたくさんの経験を積ませてもらいました。親子であっても、師匠と弟子の関係で

褒められた記憶はほとんどありませんでしたが、でかしたと言われたことがあってその時は

嬉しかったです。父にまたでかしたと言ってもらえるように、頑張ろうと思います。

たくさんの孫に慕われていた父でした。本当に分かりやすく、女の子には優しく、男の子には厳しい

父でしたが、何よりも母と最期まで連れ添えたことが一番の幸せだったろうなと思います。

残された私共は未熟ではありますが、皆様方には故人と同様、お付き合いいただき御指導

いただけますことをお願い申し上げます。

上記の文章は、吉原大貴が、家族葬にて話させてもらいました内容です。

昨今のコロナの状況を鑑みて、関東の方で葬式を執り行いました。横浜だと葬式が1

週間後と言われた為、神奈川県逗子市にある葬儀場となりました。

海が近く、父が集めていた鎌倉七福神の寺も近く、家族と身近な関係者だけでしたが、

供花も弔電も沢山いただき、素敵な式ができました。皆様方からの心温まるお気遣い

ありがとうございました。遺体を囲みながらみんなでたくさん話をしながら、

父もこの輪に入りたかっただろうなと思いましたが、もし父がこの場にいても話好き

の父の独壇場で誰も口を挟めなかっただろうなと思いました。

今は寂しく切ない想いがいっぱいです。

今後は父に代わりまして頑張って参ります。今後とも宜しくお願いいたします。